明治13(1880)年、15歳のときに、兄秀實に伴われて上京した慶蔵は、下谷(現、台東区下谷)の進學舎でドイツ語を学び、同年、東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学しました。さらに明治18(1885)年には、東京大学医学部予科に入学、明治24(1891)年に帝国大学医科大学を卒業後、直ちに附属第一医院外科医局に入局しました。医局ではお雇い外国人教師として来日していた外科医スクリバの助手として働きました。 明治26(1893)年、慶蔵はドイツへ留学し、はじめは外科学を修めましたが、帝国大学医科大学皮膚病梅毒学の初代教授村田謙太郎が亡くなったために、その後任を求めていた文部省から、文部省留学生として皮膚科学を学ぶようにと命ぜられました。そこで、ウィーン大学ではカボシーに皮膚科学を、ランゲに黴毒学を学び、さらにパリ大学でギュイヨンに泌尿器科学を学び、明治31(1898)年1月に帰国しました。 帰国直後の同年2月、慶蔵は東大医科大学に新設された皮膚病梅毒学講座を担任、6月には主任教授となり、大正15(1926)年まで在籍しました。その間、諸種の皮膚病を発見し、独特の皮膚治療法を考案し、特に理学的療法に先鞭をつけるなど、28年間にわたってわが国の皮膚科泌尿器科学の開拓・育成に努めました。また、日本皮膚科学会、日本性病予防協会(現、性の健康医学財団)を創立し、その会頭を務めたほか、多くの学会の指導にあたりました。 その一方で、慶蔵は、東大医科大学時代の同級生呉秀三や医史学界の泰斗となった富士川游らの影響を受け、医史学にも興味を持つに至り、のちに著した『世界黴毒史』(大正10(1921)年刊)は不朽の大作として知られています。また、漢詩文にも造詣が深く、鶚軒と号し、多くの作品を残しています。昭和6(1931)年、東京で亡くなりました。享年65歳でした。 |