- 1861年(文久元年)6月 公卿堤哲長の三男として誕生し、亀麿と命名される。
- 11歳で明治天皇の側近 御給侍役となる。
- 1876年(明治9年)16歳の時、石見国(島根県)旧津和野藩主 亀井茲監(これみ)の養子となり、茲明と名乗る。
- 17歳の年、英国に留学し、ロンドン大学予科で一般教養としての語学、歴史、地理などを学び、 余暇には水彩画を描き、写真撮影に強い関心を示す。
- 1880年(明治13年)帰国後 西周の塾「育英社」に通う。
- 23歳の年、宮内省御用掛外事課に勤務。1884年(明治17年)子爵を授けられ、侍従試補を任ぜらる。
- 1886年(明治19年)26歳の時、宮内省を休職しドイツへ留学する。3年間の期限を5年間滞在した。
留学の目的は諸外国の帝室儀式の調査でしたが、実質は美学美術の研究にありました。これは、留学の目的を定めるにあたり、西周の意見を聴き、貴族として実学でない分野で国家の役に立つことをと考えてのことでした。ベルリンでの最初の1年は、森鴎外の斡旋によりドイツ語の習得に努め、翌年ベルリン大学に入学し、美術歴史部、美妙学部(オペラ)、人生学部(心理学)を専攻するほか、イタリア文学史、建築史、彫刻史を非常に熱心に学んだようです。この留学中に「美術論 第一(明治20年2月3日付け)、第二(明治20年3月15日付け)、第三(明治21年2月29日付け)」を執筆しています。内容は、第一は概論、第二は研究の成果を日本の社会、国家にいかに役立てるか、第三は帰国後の具体的計画で、この計画は美術学を全国に広めるための著書出版を考え、その事業対策として製紙業にも注目しています。旧津和野藩が和紙の生産地でもあったのと関係あるようです。
茲明の美術研究の調査事項は、第1期:東洋古代の美術、第2期:西洋太古の美術、第3期:中世西洋の美術、第4期:近世之美術建築ほかというように古今東西の美術、建築にわたって行われていました。留学中の1889年(明治22)にはパリ万国博覧会が開催され、約2週間にわって連日博覧会に通い見学をしています。
また勉学のかたわら、油絵を習得し、泰西名画を模写し、写真にも興味を募らせています。さらに、生活費を切り詰めて染織見本、美学美術関係の書籍の収集に勤めています。染織関係の収集は、デザインの多種多彩だけでなく、工業製品のデザインの重要性に着目していたのではないかと考えられています。
1891年(明治24年)留学中に伯爵を授けられ、ドイツ、オーストリア、イタリアの美術を見学後帰国しました。帰国後は、留学中に書いた、「美術論」の第三に表明した計画の実施のため、事業方針「三策」を立案し、実施に移そうとしました。その1.美術学校、美術館の設立、2.全国遊説、3.著書出版の三策です。美術学校・美術館の設立は、「美術院図案」を自ら書き構想を練り必要性を説き、全国遊説では、東洋美術各協会設立の機運をもりあげ、著書出版では向島に工場を設置し、石版や、印刷術の研究に着手しています。しかし、1894年(明治27年)34歳の時に日清戦争が始まり、自費で写真班を編成して従軍を志願し戦闘場面、砲台、錨地など、300枚の写真を撮影しています。この戦場での生活で健康を損ない、1896年(明治29年)36歳の若さでこの世を去りました。死後、従軍の際の写真、日記(注)は、亀井家によって出版されています。
(注)
「明治二十七八年戦役写真帖」明治30年
「従軍日乗」明治32年
復刻版 「日清線装従軍写真帖:伯爵亀井茲明の日記」柏書房
(学内では教養・社国際関係及び文学部文化資源に所蔵)
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