1.概観 東京大学名誉教授 金井 圓
 幕末・明治の日本は近代国家としての富国強兵をめざして西洋人を
顧問、教師、技師などとして雇い入れ、広く「お雇い外国人」として
知られている。とりわけ明治政府は、その成立の当初から西洋の科学
知識や技術、諸制度の導入のため日本人留学生の海外派遣と外国人専
門家の雇用につとめ、条約改正にともない外国人雇い入れ規則が廃止
される明治32(1899)年までの約30年間に政府(官傭)、民間(私
傭)を併せて毎年600ないし900人の外国人を、しかも高給をもっ
て雇った。政府雇い入れは当初年間500人を超えたが、まもなく半
減し、のち漸減したが、文部省関係の教育部門には急激な減少は見ら
れない。これに対して、民間企業の雇い入れ人数は、当初100人に
も満たなかった人数が漸増し、やがて700人にも達した。政治、法
制、産業、財政、教育、文化、技術、医学などさまざまな分野にわたっ
て、明治政府がモデルと考えた先進諸国の近代的知識、技術の移植に
つとめ、10カ国以上の西洋諸国からの雇用が見られたが、とりわけ
アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスからの受け入れが群を抜いた。

 幕末の洋学施設を引きついで「東京大学」が明治10(1877)年
4月12日、学監D・モルレーの指導のもとに文部省管下にあった東
京開成学校と東京医学校を合併して創設されたが、当時は法・理・文・
医の4学部と予備門からなる高等教育機関であり、明治17年に現在
の本郷キャンパスができたが、近代的な官立総合大学となったのは明
治19(1886)年、帝国大学令の公布とともに、予備門を廃止し、
工部大学校を合併、ついで東京農林学校をも合併して、法・医・工・
文・理・農の6分科大学と大学院をもつようになってからである。そ
の名称「帝国大学」は、明治30(1897)年に京都帝国大学が設置
されたとき「東京帝国大学」と改められた。

 「東京大学」創立までに、文部省雇い入れ外国人の約20パーセン
トが「傭外国人教師」として受け入れられ、その数は約50人に達し
ていたが、「東京大学」では次第に減少し、「帝国大学」発足ととも
に幾分増加したが、やがて20人前後に定着した。この変化は、帰国
した日本人留学生が大学教授陣を占めるに従って外国人による教育分
野が必要最小限の範囲に限定された結果である。

 明治初年から約30年間の外国人教師は、それぞれの個性をもって
西洋の新知識・技術を伝え、学生の指導に当り、また諸学会を育成す
る一方、日本文化のよき理解者として日本の国際交流にも寄与した。
このたびの本学創立120周年記念展第1部「学問のアルケオロジー」
への参加に当って、附属図書館はこれらのお雇い外国人教師たちの事
跡を、とりわけ本学に対するさまざまな寄与、貢献という観点から、
附属図書館(総合図書館、部局図書館・図書室)所蔵の著作・記録など
文献資料を通じて明らかにし、併せて彼らと学生たちの生活・研究状
況の実態をも回顧することとした。出品の選択・貸出し、調査・展示
にかかわったすべての方々のご厚意とご尽力の成果として、観賞して
いただければ幸いである。
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