幕末の遣欧使節団

3.パリ万博使節団の一行


 慶応2(1866)年幕府が長州征伐戦争で完敗した後は、日本全体が鎖国攘夷から万国対峙の方向に急速に転換していった。新将軍徳川慶喜は、1867年のパリ万国博覧会を機会に弟徳川昭武を派遣し、ヨーロッパにおいて積極的な幕府外交をくりひろげようとした。昭武一行が横浜を出帆したのは慶応3(1867)年1月のことである。

 同時に、幕府はイギリスへの留学生派遣にならって留学生をも送り出した。しかしながら幕府の瓦解により、留学生等は翌年5月に、昭武自身も11月には帰国せざるを得なかったのである。

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とくがわ あきたけ
徳川昭武
(徳川斉昭18男、
 慶応3年12月上旬ヌマ・グランク撮影)

くりもと あきのかみ
栗本安芸守
(外国奉行、ヌマ・グランク撮影)

ほしな しゅんたろう
保科俊太郎
(歩兵頭並、
 ヌマ・グランク撮影、
 のち陸軍大佐、明治16年6月自殺)

くりもと ていじろう
栗本貞次郎
(安芸守の養子、
 横浜仏語伝習所得業式生徒総代、
 メシエ撮影、のち外務官吏)

   ※いずれもパリで撮影のもの

 < 以上の出典 >

 ●明治名士写真帳(~−リ−139)
  ※オリジナル写真アルバム

  3−1、3−2、3−3、3−4


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