幕末の遣欧使節団

2.横浜鎖港談判使節団の一行


 文久3(1863)年は孝明天皇の命のもと、日本全国で奉勅攘夷の嵐がふきあれ、5月には下関海峡で長州藩が外国船を砲撃し、7月には薩英戦争が勃発した。苦境に追いこまれた幕府は、外交交渉によって横浜のみの鎖港を実現しようと、同年12月外国奉行池田筑後守を正使とする使節団をヨーロッパに派遣する。しかし、ヨーロッパ各国が承知する訳もなく、最初の訪問国フランスで見切りをつけた使節団は元治元(1864)年7月横浜港に帰国し、幕府から処罰された。

 使節団一行の写真はパリの医学研究所を訪問した際ルイ・ルソーによって撮影された。ここに示すものがそれである。また一行の内には菅波恒のようにパリの写真家に撮影してもらった人々もいた。当時の幕臣達は相当のつらがまえのもちぬしであった。配列は当時の身分序列に従っている。

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いけだ ちくごのかみ
池田筑後守(28歳)
(外国奉行、正使)

かわず いずのかみ
河津伊豆守(44歳)
(外国奉行、副使)

かわだ さがみのかみ
河田相模守(30歳)
(目付)

たなべ たいち
田辺太一 (32歳)
(外国奉行支配組頭)

たなか れんたろう
田中廉太郎(37歳)
(外国奉行支配調役)

にし きちじゅうろう
西 吉十郎(37歳)
(通弁御用頭取)

さいとう じろうたろう
斎藤次郎太郎(34歳)
(徒目付)

すどう ときいちろう
須藤時一郎(32歳)
(外国奉行支配調役並、
 沼間守一の兄)

しおた さぶろう
塩田三郎 (19歳)
(通弁御用出役、
 順庵の子)

10

やつ かんしろう
谷津勘四郎(31歳)
(小人目付)

11

ほりえ ろくごろう
堀江六五郎(37歳)
(小人目付)

12

ますだ たかのすけ
益田鷹之助(38歳)
(外国奉行支定役元締、
 進の父)

13

すぎうら あいぞう
杉浦愛蔵 (25歳)ゆずる
(外国奉行支定役、のち譲)

14

やの じろうべえ
矢野次郎兵衛(19歳)
(同心)

15

まつなみ ごんのじょう
松濤権之丞(28歳)
(定役格同心)

16

せき しんぱち
尺振八  (23歳)
(通弁出役)

17

ますだ   ましだ たかし
益田進  (16歳)
(通弁御用当分御雇、
 のちの益田孝)

18

やまのうち ろくさぶろう
山内六三郎(27歳)
(御手附翻訳御用出役、
 のち鹿児島県知事)

19

はらだ ごいち
原田吾一 (34歳)
(蕃書取調出役教授手伝、
 のち貴族院議員)

20

こいずみ やすえもん
小泉保右衛門(38歳)
(池田筑後守家来)

21

おおぜき はんのすけ
大関半之助(40歳)
(河津伊豆守家来)

22

うらがみ さすけ
浦上佐助 (26歳)
(河津伊豆守家来)

23

いわまつ たろう
岩松太郎 (23歳)
(河津伊豆守家来、
「航海日誌」を記す)

24

べっしょ さじろう
別所左次郎(25歳)
(河田相模守家来)

25

たかぎ とめさぶろう
高木留三郎(27歳)
(河田相模守家来)

26

たまき みつや
玉木三弥 (23歳)
(河田相模守家来)

27  28  29

すがなみ つね
菅波 恒 (20歳)(田辺太一従者)
(28・29はパリのピエール・プチ撮影)

30

みやけ しゅうぞう
三宅秀蔵 (16歳)
(田辺太一従者、 しゅう
     のちの三宅秀)

31

もりた やすけ
森田弥助 (39歳)
(西吉十郎従者)

32

うらもと
浦本時蔵 (20歳)
(斎藤次郎太郎従者)

33

おっこつ わたる
乙骨 亘 (17歳)
〔「海を渡った日本人」では
 「時藤」となっている〕
(理髪師として渡る、
 上田敏の父)

34

池田筑後守従僕某

35

すみ   (17歳)

 ※年齢は元治元年現在のもの

 < 以上の出典 >

 ●維新前後名士其外写真帖(I−リ−1114の1〜24)
  ※オリジナル写真アルバム

  2−28、2−29

 ●遣欧使節一行其他写真(I−リ−1890)
  ※巴里図書館所蔵とあり。ルイ・ルソーがパリの医学研究所で鎖港使節を
  撮影したたものが中心の複成写真アルバム

  2−1 〜27, 2−30〜35


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E-mail: syskan@lib.u-tokyo.ac.jp