「東大黎明期の学生たち−民約論と進化論のはざまで」

東京大学大学院人文社会系研究科
月 村  辰 雄

 明治初年は、西欧の文物がいちどきに流れ込んだ時代である。それは、封建的な「諸規制の撤廃」と各種の「自由競争の導入」に特徴づけられる、まことにあわただしい変化の時代であった。
 東京大学もまた例外ではない。名称は明治初年の開成学校から、大学南校、南校、第一大学区第一番中学、第一大学区開成学校、東京開成学校を経て、明治10年に東京大学へとめまぐるしく変わり、それに応じて教育目的が、カリキュラムが、修学年限が変わった。

 このような変化の時代に、東京大学の学生たちはどのように学び、考え、そして生きたのか?

 本展示会は、これまでもっぱら制度面の変化を通して語られることの多かった黎明期の東京大学のありさまを、東京大学総合図書館が所蔵する各種の資料をもとに、主として学生たちに焦点をあてて明らかにしようとする試みである。

 笈を負って上京した没落士族の若者たちは貧しかった。彼らの学業を支えたのが給貸費の制度であるが、熟練の職人の日当が30銭であった時代に月額10円を支給する第一番中学の給貸費の内訳表によって、彼らの衣食住が浮かび上がるであろう。それは貧困にあえぐ庶民とかけ離れたハイカラな暮らしであった。また、神保町から小川町にかけての商店の分布を復元し、そんな学生たちをあてこんだ飲食店や唐物屋の簇生を明らかにしてみよう。

 さらに学生たちの勉学を支えたのは、高価であった洋書教科書の貸与システムであった。大学はカリキュラムの変更のたびに、横浜や築地の居留地の外国商館や、丸善をはじめとする洋書店から、あるいは在外公館を通じて直接、大量の教科書を買い入れ、惜しげもなく学生に供与した。総合図書館には、学生たちのノートや落書きが書き込まれた洋書教科書が保存されているが、いわば彼らの息吹の伝わるそれらの資料によって、当時のカリキュラムの変遷の様子を具体的に明らかにできるであろう。

 大学南校の時代に全国から募った貢進生約300人は、いわば初代の東大生といってよい。その中で選ばれて外国に留学した者21人、明治10年以降まで東京大学に残って卒業証書を手にした者19人。この熾烈な競争に生き残る限りにおいて、彼らは国家の手厚い保護を受け、新しい欧米の学問の修得に励んだのであった。しかし、そんな東大の学生たちも、明治10年代に入るといやおうなく政治の嵐にさらされる。一つは、ルソーの『民約論』と自由民権運動。もう一つは、ダーウィンの『進化論』と社会的ダーウィニズムである。

 本展示会では、まず自由思想の起爆材となったギゾーやバックルの開化史、またフランス啓蒙思想の影響を受けたウエイランドの倫理書や経済書などを、いずれも当時の洋書教科書から選んで展示する。これらはほかならぬ東大黎明期の教室で、実際に学生たちによって読まれた本なのである。また、明治15年、文学部政治学科の卒業生の全員と法学部卒業生の一部が、官途に就くことを拒んで改進党に身を投じた事件が持ち上がったが、これについては大学側の見解を、卒業式でフェノロサが述べた「卒業生は官吏となり、政府と協調すべきである」という演説(『学芸志林』掲載)を通じて窺うことができるであろう。

 こうした民権論に待ったをかけたものが、理学部動物学科に招かれたモースの紹介したダーウィンの進化論である。モースによれば、自然淘汰と適者生存というその理論は、動植物の世界について適用されるべきであった。しかし大学総理加藤弘之はモースによる紹介後、これを人間社会に適用する社会的ダーウィニズムに傾き、人間は生まれながらに自由で平等なのではない、いわゆる天賦の人権なるものは存在しないとする『人権新説』を発表する。展示の書籍は外山正一旧蔵本で、加藤の手になる「優勝劣敗是天理矣」と文字が見える。

 やがて帝国大学となる東京大学に、新しい時代が始まりつつあった。それは司法省法学校や工部大学校もあわせた巨大な高等研究教育機関であったが、他方、帝国主義の世界の中で生存競争を余儀なくされる国家に、有為の人材を送ることを義務づけられてもいた大学であった。
 現在世上を賑わす「規制緩和」「自由競争」というスローガンには、優勝劣敗と生存競争を肯定する社会的ダーウィニズムの影がつきまとう。本展示会の展示を通して、明治の初年、その社会的ダーウィニズムにじょじょに傾かざるを得なかった東京大学とその学生たちの姿を振り返ることは、現在の私たちの姿を見つめることにつながらないであろうか?

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