戦中・戦後の総合図書館

 震災から劇的な復興を遂げた総合図書館(当時は「本館」と呼ばれていました。「総合図書館」の名称は後に付けられたものです。)でしたが、今度は、戦争の被害によって、壊滅的な被害を受ける可能性がでてきました。昭和19年、空襲が避けられない情勢となり、図書館の貴重な資料を守るために、総合図書館は貴重書疎開を計画しました。山梨県市川大門の元青洲文庫があった建物が空き家になっており、そこを疎開先に決定し、当時の市河三喜館長の陣頭指揮の下で、職員総出で作業をおこないました。このときの疎開図書は、インキュナビュラをはじめ、木内文庫のカント著作及び関係古版本、キリシタン関係貴重書、16~18世紀の貴重書など約2千冊でした。これをタバコの空き箱3百個に詰めて、秋葉原駅から現地に送ったそうです。日ごとに物不足、交通事情の悪化が深刻となっていた頃で、たいへんな作業であったと伝えられています。

 震災で大打撃を受けた図書館でしたが、太平洋戦争で東京一帯が焼け野原となる中で、幸運にも、空襲の被害を全く受けずに済みました。本郷界隈はほとんどが火災で焼失したものの、図書館建物に延焼することはありませんでした。一説には、東京大学周辺に植えられた樹木が防火林の働きを果したといわれています。しかしながら、直接の被害は受けなかったものの、予算・物資の窮乏や人手不足のため、総合図書館の図書館業務は著しい停滞を余儀なくされ、利用も激減しました。

 昭和30年代になり、経済や産業の成長と高度化に伴い、東京大学を取り巻く環境は大きく変化していきます。総合図書館も建設されてから三十年余りがたち、建設当時の施設や機能のままでは、近代的な大学図書館としての機能を十分に果たすことができなくなっており、大学の最前線の研究教育に資するためには、飛躍的な改革が急務となっていました。

 そこで、総合図書館はじめとして東京大学内の図書館全体の近代化を推進するため、昭和35年に就任した岸本英夫館長を中心にして、さまざまな改善計画が立案、実施されていきます。

まず、全学の図書を効果的に利用できる方策として、学内図書館間の協力を強化することを目的とする東京大学の図書館全体の抜本的な機構改革が施されました。「本館」から「総合図書館」への改称もこの時おこなわれ、総合図書館だけを附属図書館と位置づけていたのを改め、東京大学の全図書館(室)を総称して附属図書館とすることとなりました。

 学内図書の効果的な利用の一貫として、全学の図書の総合目録(カード目録)が作成されました。それまでは、東京大学全体にわたって図書を探す方法はなく、利用者は各図書館(室)をたずねなければならないため大変不便でしたが、総合目録によって大きく改善されました。総合目録は、現在も参考室に置かれ利用されています。

 また、総合図書館の機能向上のため、諸施設の全面的な改修がおこなわれました。現在の総合図書館内のプランニングは、このときのものです。

 こうした諸改革の実施には岸本館長の尽力に負うところが大きく、以後長期間にわたって、改革の果実を享受することができました。